17.05:5月、大型連休、旅行にいきたいですねえ。

手書き

先日とある新聞で興味深いコラムが目に止まった。タイトルは「手書きができない詩人」書いた人は「さいはて・たひ」さん。正直どういう方か知らないのですが、すでにいくつか詩作詩集を出版されいくつか賞を取られてる注目の詩人さんのようだ。

この方は「手書きで原稿を書く、何てことがどうしてもできない」のだそうだ。かつての文豪など他者の手書き原稿はその書き手の「生」に触れ見とれてしまうのだが、自分の場合は何を書けばいいのか全く分からず真っ白になってしまう、と言われる。

「原稿用紙というのは要するに、作者の思考経路を残すためのものであって、完成作品を書くものではない」「最初はこう書いたけど、やはりこう直して、でもそうすると別のところがおかしくなるから、そっちもこう直して、全体を整えるためにここも直す」
まさに建築設計の状況と同じでありついつい共感を覚えてしまう。しかしさいはてさんはそうではない、らしい。

携帯やパソコンでタイピングして書く言葉は修正を入れるとその前段階は消え「その時の完成形だけが残され思考過程は残らない」
「どちらも言葉に向き合うことに変わりはなく、またどちらが正しいということでもないが、書いたものを枝分かれさせながら重ね塗りしていくように思考するより、書くその瞬間に全てをかけて即興で言葉を掴みにいくこと、それが私は好きで、書く醍醐味だと思う。だからまっすぐに駆け抜けられるタイピングが私は好きだ」
自分とは違うけれどこちらにも共感を感じてきた。そして次の言葉。
「書いていて、書いた文字がニュートラルな見え方をしないのは苦痛だ」
これには結構心が動きました。
線を重ねていくことで作家の感性や思考を刷り込んでいく一種の重さから解放することで新しい表現が可能になる。今の建築にも繋がってると思い、今の「時代」を感じました。

「」内は原則さいはてさんの言葉通りですが部分的に要約しています。
17.05.01