産経110311
朝吹真理子

芥川賞を受賞して 朝吹真理子 私の思考も、未知である
2011.3.7 07:45 (1/2ページ)


第144回芥川賞・直木賞の贈呈式であいさつする朝吹真理子さん=2月18日、東京・丸の内の東京会館(栗橋隆悦撮影)

このところ「書く」ことをめぐる書くことがふえている。じっさいに小説のことを考えているときは、日々、紙に一文字を書きつけることに手一杯で、書きつつある作品を通して「書く」行為そのものを考えたりすることはあっても、それを明文化したことはなかった。思いめぐらせていなかったところに思考を向けている。自分のなかで動きつづけるぼんやりとした考えがもやもやとひろがり、かえって思考の視界を遮ったりもする。考えの端緒や推移、結論もまちまちで、いったい具体的にどのように作品を書いているのか、考えてもいっこうにわからない。一文字さきがわからないまま書いている、と思っているが、ほんとうにそう思っているのか。考えている主体であるところの「私」の範囲がどこまでなのかさえ、考えているうちに見失ってゆく。

考えたことのなかから大切なところだけを繋(つな)げてゆくと文章は直線にしたてあがる。しかし、そうして書かれた文章は、考えは明確であってもひどくつまらない。それは言いたいことと考えたことしか書かれていないからで、大切なことだけしか書かれていないものは面白くないのかもしれない。直線の文章は、一見、明確なようにみえて、じつはほんとうに大切ないろいろなものがこぼれ落ちているのではないかと、うっすら思う。

ほんとうにささやかなことから「書く」きっかけはおとずれる。たとえば、音楽を聴いて寝そべり、本棚の隅にしまわれていた地図帳をなにとはなくみていたとする。地上の起伏をしめす等高線、湖や海の水深をしめす等深線といった線形が、流れている音楽よりも、音楽として目から聴こえはじめる。地図のえがく水平曲線のほうがほんとうの音楽のように思える。そういうイメージが、日常を過ごしている現在(とき)にふと差し込まれる。そのイメージを言葉に梱包したいらしい。

水を張った盥(たらい)にドライアイスを投げ込むと白煙のようなものがあたりに立ちこむ。正式には微粉状の氷であるらしいその白いもやもやがイメージにあたるものだとする。作品を「書く」作業は、そのもやもやを言葉に置き換えて紙に書きつけることを指す。一方、「書く」ことをめぐって書くことは、発生するもやもやに息を吹きかけ、水中のドライアイスの状態を観察することに似ている。二酸化炭素が泡音をたてている。そのひとつぶひとつぶに思考を向けることではないかと思う。しかし、比喩を使うと考えることの土台をその理(ことわり)にあてこむことになる。ドライアイスという、昇華点マイナス79℃の二酸化炭素の塊になぞらえて考えすぎることも、ほんとうにそのときどきで考えていることからはしだいにずれてゆく気もしている。

考えというのは、とどまってみたり、すばやく動いたりして、考える現在によって、一瞬ごとに変化している。人間の思考は、たとえ「私」のなかを通り抜けたことであっても、つねに未知で、捕まえきることができない。(寄稿)
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【プロフィル】朝吹真理子
あさぶき・まりこ 昭和59年、東京生まれ。26歳。平成22年、デビュー作「流跡」でBunkamuraドゥマゴ文学賞を最年少受賞。慶応大大学院在学中の今年1月、「きことわ」で第144回芥川賞が決定。