02.04:少々複雑な思いも込めて。
装飾
先日久しぶりに母校K高校を訪れました。
新校舎が出来上がったので旧校舎が解体されることとなり、お別れ会の企画があり、新旧校舎が同時に見れる最後の機会と言うことで行って来ました。
新らしい校舎はその良く練り込まれた基本プランに加え、CON打ち放しと白い塗装仕上げが瑞々しく、随所に見える冴えた形態処理など斬新な魅力に溢れていました。
かたや旧校舎は築70年の汚れに覆われながらも、戦前戦後を生きた蓄積の重みはやはり圧倒的で、風格に満ちた姿で堂々とそこにありました。
新旧を同時に見てインテリアももう一度体験して・・・これは単に卒業生のノスタルジーを超えてと思いたいのですが・・・正直なところ旧校舎の方が素晴らしく感じられ、新しい建物が、と言うよりそれを通して見える現代建築が何だかつまらない物に見えてきて、戸惑い、そして考えさせられてしまいました。
その要因は建築的細部の問題であり、もう少し突っ込んで言えば人の手による仕事、つまり装飾(意匠と言うべきか?)の有無なのではないかと。
近代建築は当初豊かな装飾的細部を持っていました。
文様やアールヌーボーのような装飾が否定されたとしても、モダンの息吹を伝える建物を支えていたのは建築各部位における人の手による仕事であったと思うのです。
その後時代を経て、インターナショナルスタイルが、そして工業化、大量生産と言った時代の指針が改めて装飾を否定した時に、同時に人(職人)による物創りと言った側面まで否定してしまったように思います。更には自然の素材が建築の現場から姿を消していきました。
それからは新しいハイテクノロジーに支えられた建物が出てくればくるほど、かつての建物に溢れていた人の手による仕事の魅力がより鮮明になるような気がします。
人が心を込めて自らの手で創ったものは時代を超えて訴求力を持つ。
そう言うものの中に装飾も含まれており、装飾は決して忌み嫌うものではなく、その中に文化の継承もあり建築の分野でも大切にしないといけないのではないか。
それは経済効率主義では計算に乗らない価値観であるが忘れてはいけない、と言うよりそれぞれの時代で有効なあり方を発見すべきものではないかと思うのです。
工業化製品のアッセンブリーと言う今のやり方でも、一つの建物を完成させるまでには非常に多くの人がその仕事に携わります。それらの人の思いや手の跡が建物に刻み込まれるようなやり方がないものかと、そんなことを母校で思った次第です。
03.09.16一部修正
02.03.31
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